「ハードルなんて、
姿勢そのものが気胸に良くない気がするなあ」
「また気胸になったら嫌だから、
そんなに頑張らなくても」と心配する
家族の声を全て聞き流し、
浩介は陸上の練習にのめり込んでいく。
陸上マガジンを毎月買って貪り読み、
より良い練習方法の習得に余念がない。
朝練から始まり、毎日夕方遅くまでの練習をこなし、
家に帰ってからも筋トレをする。
プロテインを毎日作って飲み、
日々筋肉がついて出来上がっていく身体を、
浩介は嬉しそうに家族に見せびらかした。
「お兄ちゃん、裸で家の中うろうろするのやめてよ~」
という純子の訴えも笑顔でかわし、
「すごいだろう」と半裸で歩き回っている。
筋肉のついた身体ではあったが、
2回の手術を受けたので、計6箇所の傷跡があった。
一回手術で開けた場所は使わないものらしく、
そんなに傷跡が多いのだ。
「まるで戦争に行って帰ってきたような身体だね」
とため息をつく由美子。
まさかこの傷跡がさらに増えることになろうとは、
この時は思ってもいなかったのだ。
浩介が通う近江西高校は文武両道を掲げる伝統校
として地元では有名な進学校だった。
ただ、一つのことに夢中になると
周りが見えなくなる浩介にとって、
高校生活は「陸上競技」一色という感じだった。
小さい時から陸上競技が好きで、
かけっこにやたらと燃える少年だった。
負けず嫌いだったので、
かけっこ競争が爽快で性に合っていたのかもしれない。
小学校の時にスポーツ少年団でコーチの先生たちに
可愛がってもらったこと、
仲間とチームで組んで駅伝競走に毎年出場してきたこと
などがよほど楽しかったのだろう。
高校ではあらゆる努力をして結果を出すのだと
燃えているのだ。
由美子も小学生の時から陸上競技に頑張る浩介を
親として応援してきた。
試合ごとに消化に良いお弁当を作り、
ほとんどの試合を応援しに出かけた。
浩介は飛び抜けて速い選手ではなく、
浩介以上に生まれつき速い選手はたくさんいた。
ただ、浩介は走ることがとてつもなく好きだった。
努力すればするほど
ダイレクトに結果が自分に跳ね返ってくる陸上競技が
面白くてたまらなかった。
そして、生き生きとやる気満々で走る息子を、
ロード側で声を枯らして応援することが
由美子にとっても親としての大きな喜びだった。
しかしだ。由美子は、
高校生になっても勉強は二の次で、
陸上競技にばかり熱中する浩介が
少しづつ心配になってきた。
高校1年の終わりに
文系か理系かを決めなくてはならないが、
由美子がそのことに気づいて、
どうするのかを浩介に尋ねたところ、
「あ、それもう決めたから」
「どちらにしたの?」
「文系」
「文系?なんで?
あなた文系に進んで何になるつもりなの?」
「うーん、まだ何になるか決めてない」
「じゃあ、なんで文系なの?」
「理系だと文系よりたくさん授業があるから。
たくさん授業があると、
グランドで練習する時間が短くなっちゃうからさあ」
「はああ?何それ。そんな理由で文系にしたの?
将来何になりたいかも考えないで?」
「だって何になりたいか、まだわからないんだもん」
「高校2年生になるのに、
まだ自分が何になりたいかわからないの?
あなたには夢ってものがないの?」
「夢ならあるよ。僕の今の夢はねえ、
試合で3位以内に入って表彰台の上に立つこと。
お母さん知ってる?表彰式で流れる音楽」
「ああ、いつも派手に流れてるよね」
「あの音楽を表彰台の上で聞きたいの。
それに県でベスト8に入って近畿大会にも行きたい。
部活で5人近畿大会にいく先輩がいるんだけど、
僕も高校時代に近畿大会に絶対出場したい」
「まあ、部活の目標もいいけど、
そろそろ将来のことも考えないとねえ。
何の仕事がしたいとか考えないの?」
「それならね、僕、スポーツ少年団のコーチになりたい。
地元の子供達に僕が教えてもらったように
陸上を教えるコーチになりたい」
「あ、あのねえ。
スポ少のコーチの先生たちはボランティアなんだよ!
あなた高校生にもなってそんなことも知らなかったの?」
「あっ、そうか!あれは仕事じゃないのか」
「そうよ。仕事じゃなくて、ボランティアなのよ!
それぞれ仕事を持っているのに、
土日に子供達のためにボランティアで
教えてくださっているんだから」
「ああ、そうかあ。そう言われればそうだなあ。
じゃあ、どうしよう。
僕、スポ少のコーチになりたいとしか思ってなかった」
「うわあ、信じられない。
陸上に夢中になるのもいいけど、
自分の将来のことも考えなさいよ!」
浩介は由美子に驚かれながらもどこか人ごとで、
また「筋トレ、筋トレ」と
そそくさとその場を逃げ出した。
由美子は呆れながらも、全てに無気力よりは
陸上だけでもやる気があるのはましかとため息をつく。
しかし、あんな理由で文系にしてしまって、
後で後悔しないのだろうか。
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