文系で陸上(競技)オタクだった息子が医者になった理由6

子育て

浩介にとって高校生3回目の春が来た。
見事な桜が通学路の両脇に
これ見よがしに咲き誇る春である。
そんな浩介たちの学校に、陸上を専門とする
短距離の指導で有名な体育の先生が転勤してきた。
部長として大きな目標を掲げ、
部員たちを率いていた浩介にとっては
願ったり叶ったりであった。
士気が頂点まで高まっていた浩介の
武者震いは止まらなかった。

ところがである。
神様はなんと意地悪なのであろうか。
新年度、新しい顧問を迎え、
リレーメンバーも組まれ、一致団結して
着々と準備が進められている高体連1ヶ月前の4月。
浩介が忘れていた、
浩介が懸命に忘れようとしていた
恐るべきことが起こってしまったのだ。

その日、日が暮れて仕事から由美子が帰って来ると、
自宅の鍵は開いていたが家中真っ暗だった。
玄関にはいつもなら練習で
まだ帰っているはずのない浩介の靴がある。
由美子は「浩介?帰っているの?」と声を出しながら、
玄関、廊下、階段と順番に電気を付けながら、
二階の浩介の部屋まで恐る恐る上がっていった。

浩介の部屋の扉を開けると、
やはり部屋の中は真っ暗だった。
目を凝らすとベッドの上で浩介は横たわっている。
由美子が電気をつけると、浩介は左腕で顔を覆った。

「どうしたの?具合でも悪いの?」
「・・・・」
「熱でもあるの?」
「くそお・・・。俺は終わった。」
「何があ?何が終わったん?」

「・・・。また破れた。最初に破れた右の方が。
あと1ヶ月で高体連やのに。最後の高体連やのに。」

「えーっ!!そうなん。それは・・・大変。
病院いかなあかんやん。ほっといたらあかんやん。」

由美子はそう言いながらも、
ことの重大さに胸が詰まった。

「行きたない。」浩介の顔を覆った
左腕の下で涙が幾筋も流れている。
部長として陸上部をここまで引っ張ってきて、
春の高体連一ヶ月前に再び右肺が破れるとは、
なんという悲劇であろうか。

行きたくないと言ったとしても肺が破れているのだ。
このまま放置するわけにはいかない。
市民病院の夜間の救急外来で見ていただいて、
翌日これまでお世話になってきた呼吸器科部長である
T先生の診察を受ける予約をする。

ショックのあまり抜け殻のように
意気消沈している浩介が痛々しすぎた。
ただ、由美子はこれだけ気胸を繰り返す我が子の
身体を心配せずにはいられなかった。

「悔しい気持ちもわかるけど、
もうこうなった以上諦めるしかないやろ。
高体連まであと一ヶ月なんやし。」
「いやや。絶対に。諦めるなんてできひん。
陸上ができひんのやったらんだ死んだ方がマシや。」
「なんでそうなるのよ。
何アホなこと言うてるの。
死んだ方がマシやなんて親に向かって
ようそんなこと言うなあ。」

陸上競技をやり遂げたいという
浩介の気持ちもよくわかるが、母親としては
とにかく危険なことから
我が子を守りたい一心である。

陸上競技よりも息子の命を守りたい。

思い詰めた由美子は
予約した時間より一足先に病院を訪ね、
T先生にドクターストップを出してもらおうと考えた。
親の私がどれだけ言っても、
陸上にのめりこんでいる
浩介の気持ちは止めることができない。
こうなった以上はお医者様に
ストップをかけていただくしかない。

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